昭和49年09月23日 朝の御理解



 御理解 第75節
 「人を殺すというが心で殺すのが重い罪じゃ、それが神の気感にかなわぬ。目に見えて殺すのはお上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ。」

 心で殺すと言う事。心でいじめるというね、心で殺されるとが一番辛い。そういう意味の事じゃ無いでしょうかね、心で殺すと言う事は。例えば有り難い気持ちでおったり、嬉しい気持ちでおる所を無残にこう切り刻む様に、人の心を傷つける人がいる。その人の心をも、明るい心を一遍に光を吹き消すように真っ暗にしてしまう様な人がある。そ言う様な意味の事ではなかろうかとおもいますね。心で殺すと言う事は。
 いかに私どもが信心をさせて頂いて、所謂可愛いと思う心が神心じゃと、74節にありますその、神心を願い求めていかなければならないかと、本当に一つやさしい豊かな、美しい心の状態を願っていかなければならんかと言う事が分かります。愈々今日は春の秋の御霊様のお祭りで御座いますが、昨夜も今日の御霊のお祭りを受けられる。沢山な御霊様が、有り難く今日のお祭りを受けられる様に、神様にお願いをさせて頂くのです。この度あの有り難いと思った事は、時間が今までの半分で済みました。
 それこそやっぱり三時間位かかります。ようべは一時間半でした丁度。というのはどう言う事であるかというと、例えば今日の御理解から言うと、そう言う事は全然自分でもあの気付かずに、いわば人を傷付け人を殺す、それは形の上ではなくて心で傷付け心で殺した、いうならば人達または御霊たちが、いうなら重い罪じゃと仰せられる、その重い罪にいわば服しておる。
 私は一番有り難いもう今まではね、まあ是は分かりやすく言うなら、地獄極楽とでも申しましょうか、極楽の世界と言うた所で勿論ピンからキリまであります。地獄の世界というてもやはりピンからキリまであります。それはもう人間の世界と同じ事です。最近合楽で極楽確認、私のほうこそいや私こそ極楽のおかげを頂いておるのであろうと。一つどうでも分からなければいけない。
 合楽で暫くでも御信心を頂いて、ならひと月でも朝参りでもさせて頂いたら、こりゃもう不思議な事ですけれども、人相が変わってくるとです。今毎朝親子であの娘さんがある難儀な問題で、参ってくる方がありますが、もうそうですね一週間位参って来た頃に、もうあんたどげなこれから、幸せするか分からんばいち私が言います。どしてですかという訳です、いんやもう第一ねあんたの人相が変わってしもうた、お母さんあんた気が付かんか、というてからその母親にも申した事で御座いましたけどもね。
 お話を頂いていくうちにいうならば、やあやあいうような心が、ですね穏やかになって豊かになって、それが顔に表れてくるです。もう本当に是はもう間違いなしに信心を頂くと言う事、お話を頂くと言う事ご祈念をさせて頂くと言う事、私が極楽行きのいうならば早道というのは、それだと思うですね。有り難いお話を頂くと言う事、御祈念をさせて頂くと言う事、それはね私共でも様々な難儀をそこに感ずる時に、その難儀というものが決してぽかっと、こういうならば降って湧いたようにあるものではない。
 一つの難儀というものが形成されるまでには、もう沢山な原因があるのです。その原因があっていわゆる因縁因果とこう申しますように、その元があってその果が生まれておるのです。けれども私どもがです信心をさせて頂くようになって、心が只今申しますように本気で美しい事には、出来んけれどももう限りなく心も美しゅうならせて貰おう、豊かな心にも成らせて貰おう、所謂信心させて頂いて日々祈念させて貰う、和賀心和らぎ喜ぶ心をも頂かせて貰おうと。
 昨日鳥栖の上野初美さんがここん所毎日参って見えます。この頃から鳥栖の市長さんの奥さんが、大変懇意にしておるというので、所謂合楽示現活動に参り行かれたんですね。所がもうほんとにあのたまがりましたちゅうて、私も聞いてたまがったんですけれどももうそれこそ五箇所から色んな宗教がね、その市長さんに信心をせろというて、勧めにくると。ましてそっで当たらず触らずでなからなければならんから、どれでも会費を納めてから、もう加入しておると言った様な、意味の事を言われたという。
 しかしほんとにあの積極的ですね他の宗教は。いままで合楽の場合なんかは、いうならば自然布教であった。もうそれこそあるがままになるがままにという生き方であった。勿論だから私が皆さんに、人にお導きをしなさいとも、人にお話をしなさいとも言わなかった、そして二十五年間経過した。所がここ一、二ヶ月間というものは、私が口を開けば、合楽示現活動と言う事を、皆さんに必ず申しますようになりました。
 それは合楽と言う事は、いま私が申します先ず私は心の世界に、極楽の世界に私の心はおかげを受けておると言う事。また私の家庭は極楽のおかげを受けておると言う事。極楽というは必ずしも、それこそ金殿玉露のようなお家に住んでる、それこそ百味の御喰沢山の食べ物があって、もうありとあらゆる素晴らしい物ずくめの中、とい言う意味ではありません。心の中が有り難いと思う心、見るもの聞くものが有り難い、見るもの聞くものが、拝まにゃおられん、そういう心の状態を極楽というのです。
 どんなに沢山のお金があっても、どんなに沢山の食べ物があっても、その食べ物が自分の喉に通らないというのであったら。もう地獄と同じ事です。食べ物を見ただけで、胸が一杯になると言う様な事だったら、もうそれこそどういうお粗末な食べ物であろうがです、それが美味しゅうして美味しゅうして、ちいうならもう極楽それだけでも極楽です。金銭でも、その別に銀行に貯め上げとかなくてもです、信心の徳によってそれこそ使うて減らぬ金百両である、必要な時には必要なだけ、贅沢さえしなければ。
 自分の分に相応な、おくり合わせが頂けるというのであったらもう極楽です。人を責めたり憎んだりする心の状態から。解脱してそして心の中にです、責める心、人を責めると言った様な、そういう心がなくなって行くとするならそれは極楽です、いわば争いのない世界に住んでおるのですから極楽です。そういうほんとにお話を頂いてみれば、頂いてみるほど、合楽に五年なら五年、御神縁を頂いておかげを頂いてきたが、成程家には薬箱もなくなってきた、争いもなくなって来た。
 成程その日暮ではあるけれども、金銭に特別貧乏すると言った様な事もなくなって来たというなら、極楽じゃないかと。してみると合楽の御信心者、信奉者の方達はまずは皆んな極楽のおかげを頂いておるといわなければならんのだけれども、人間と言うものは欲な者ですから、頂いても頂いても頂き足らぁんような、まだ頂かんならんというそういう心があるから、そこに感謝の心も喜びも湧いてこない。まず現在の時点で極楽を感じれる、一つ極楽の確認それを私が宣言したわけです。
 極楽宣言。そこからいうならばその極楽が、ピンからキリまであるのですから、一段から例えば十段まであるとするならば、二段にも三段にも最高の所にも登っていく所の、おかげを頂かなければならんのですけれども。それと反対にいうならば重い罪を犯して、いうなら地獄にもピンからキリまである、これは私が今まで御霊様とあの拝ませて頂いてね、もうそれこそ着物も許されない、水が頂きたいけれども水も与えられない、言うならばまあ便所に行きたいけれども。
 便所にも行かれないと言う程しの、もうこれ程以上に惨めな、ものがあるだろうかと言う様な、とたんの苦しみにあえいでおる御霊がいくらもありました。所が私は昨日ね、昨日私は有り難いと思った事はね、それはあの決して立派な理想ではありません。けれどもねあのそれが、カーキ色なんです私好みのあのカーキ色の、カーキ色の系統の皆お揃いの服を着ておられる事です。沢山な御霊が今まで例えば、助かっていないなあ救われていないな、と私が思っておったような御霊たちが皆一律にですね。
 そういうお仕着せの着物を頂いておると言う事です。私はもうこれも感動致しました。昨日ばっかりは。しかもねそのカーキ色は私好みでありますようにね、いうならばです私の信心によって言うならば、合楽教会の現在この示現活動をです、私が御霊様にも私のばばの御霊のお祭りを、させて頂きました時に、丁度教会でも合楽示現活動が始まっておりましたから御霊様たちにも、合楽示現活動をさして貰い、極楽をの確認のいわば宣言御霊様へも極楽宣言をさせて頂いた。
 助かっていないものには、詫びれば許してやりたいのが親心じゃ、と仰るのだから詫びなければいけないよ、詫びれば許してやるもう詫びるという素直さなんか、全然持たないんです。どんなに苦しんどっても、又はほんなら遺族のものが信心を手厚うするので、その、子供やら孫達の信心によってです、その御霊様たちがいうならば、おかげを頂いている、おかげを頂いておるけれども、おかげを頂いておるという、いうならばその確認がないのです。それはなら私がそのご信者さん方にもです。
 あなたは極楽にいっとるよと、あなたの家庭は極楽にいっとるよと。はあなんが行っとりますかこげん貧乏しよってから、いつあんた貧乏しなさった、さあ明日いくらいくら入ると言いなさりゃ、いくら神様にお届けをすりゃちゃんと、明日間におうていきよるじゃないか、一辺でん食べなかった事があるか、雨露をしのがせるられる段じゃない、立派なお家に住まわせて頂いて、寒いからというて暑いからというて、ちゃんとその時その時の、服装も例えば頂いてどこに不足がありゃ。
 私は貧乏とかというそれではいつまでたっても助からん、いつまでたっても頂き足らんような不平不足の心ではおかげにならん。ほんとに信心させて頂くようになって、振り返ってみると、信心頂かなかった時代、頂くようになってからというものは、もう格段な心の上にも、ね、物、金の上にもです人間関係の上にもです、心の状態の上にもおかげを受けておる事をまず認めさせて、はあ是が極楽というのであろうかと。
 是を愈々進めさせていくのが、愈々人間の幸福と言う事に、なっていくのだというふうに、自分という自分の現在頂いておると言う事を、まず感謝しなければいけない。ここにお参りをしてくるという、いうならば健康のおかげを頂いておる、というようにです、御霊様にもそのことの、いうならば合楽に御神縁を頂いておる限りの、例えば御霊たちがです、例えばこれは私の叔父になる人でしたけれども。
 あのサントリーのこんな丸い大きなウイスキーがありますね、まあ、高級なウイスキーです、あのウイスキーをね、もうこう隠れるようにしてその蓋の小さい蓋で、ちびちびですね、気兼ねしながら飲んでいるとこを頂いたんです。私はそん時にです初めてこれは、私に縁のある御霊たちが助かっておる、いうならば最高の酒が、酒の大変好きな人でしたから、お酒も最高のお酒が、もう与えられておんのだから。
 誰にも気兼ねもなしに、合掌して有り難いというて、頂きゃいいのばもうなにか、こそこそとですこっそりと、それこそ隠し酒でも飲むようにしてから、頂いておる姿を拝んでです。これは御霊たちにほんとに、そういう気兼ね遠慮はいらないのだ、もうほんとに極楽の世界に住んでおると思うて、有り難う頂きなさいという言うなら、宣言をしてあげなければいけないというのが、私の御霊の世界へのしかも合楽にご神縁を頂いておる限りの人達に対する所の、極楽宣言でした。
 いわゆる御霊様たちが、もう生き生きとしてです、私が一番有り難いと思う事は、もう全然合楽のあの字も知らなかった、御霊達がですね、子供の所へ皆んなのもう夢枕に表れてです、もう合楽の先生のおかげで、こう言う有り難い生活をさせて頂いておる、というて幾人からも私は、今日今度はあのお届けを聞かせてもらっとりますが、しかもです合楽示現活動と言う事をね、盛んに御霊ながらにしておると言う事です。
 御霊がまだ気付いていない、まだ御霊が極楽におりながら、地獄におるごとある気持ちでおる様な人達に対してですね、いうならばこの示現活動と言う事が、御霊の世界でもやはり盛んに行われておると言う事です。そして今までもうどうにも重い罪じゃと、今日のご理解で頂きます、重い罪じゃというもう最低の所で、言うなら信心しておった御霊達もです、もういうならば私好みの色の着物のお仕着せを頂いてです。
 今日の御霊のお祭りに参加させて頂く事が出来る事を、喜んでおるのである、楽しんでおるという様子を、頂いた。それからあの沢山のあの、ツキミ貝を頂きましたね、夕べ私はツキミ貝と言う事は、あの皆さんご承知でしょうか、この頃壱岐から頂きました貝ですけれど、この位ばっかりのお皿のような、丸いそれにもう丁度貝柱のような、もうそりゃもう素晴らしい美味しいです、柔らかでもうこんな貝私は始めて頂きましたが、そのツキミ貝を沢山頂きました。
 何とはなしにあのおかげを頂いておるという感じですね。貝と言う事はいうならばもとここは、合楽金光教神愛会といっていましたから、あの会員の事を貝のお知らせで、頂いていました。初めて参ってきます神様にお願いしますと、まあハマグリの様なものを頂きますとね、もう確かに味わいのある素晴らしい信心になっていきなさるです。大きなこうほら貝の様なのがありましょう、そすともう確かに大ゆうごとあるばってん、そりゃもういわっしゃる事だけは、えらい大きいこついわっしゃるけどもね。
 所謂ほら吹き信心にだんだん、なっていく人もあります。口ばっかりという人ですね。それかというと又しじみ貝の様なね、もうこりゃ沢山集めると良い味が出ると言った様な感じの人もあります。今の久富さんたちが一番初めに御神縁を頂かれた時にはね、あのたにし、たにしを頂きました。ありゃもう水気がなかったちゃ、もうずうっといわゆるお恵みを受けなくても、辛抱しぬく力があるという感じですあれは。
 見てご覧なさいご夫婦でああいうもうそれこそ、たまがるようなんなら夫婦とも、病気しておられますけれどもです、もうそれこそ辛抱し抜くだけではなくて、それが有り難うして、勿体のうして堪らんちゅう様な信心を続けておられる。私は一番初め御神縁を頂いた時には、たにしを頂いた。と言う様にですね私。昨日ツキミ貝というのはもう素晴らしい、いうならばそのほんとに極楽にいっておる御霊の姿だった、と思いましたですね。しかもこの合楽示現活動。
 今までの例えば二十五年間自然布教、それこそあるがままになるがままに、のあり方で今日の合楽がありますけれども、今日になってからいうなら合楽示現活動が、活発になってくるに従ってです、もうそれこそ私が口を開けばもうお参りをしてくる人にでも申します。今まで私は、大祭じゃけんさあ参ってきなさい、明日は御霊の祭りじゃから参りなさい、と言う事は言わなかった。
 そいで私はもう初めての方なんかは、明日は御霊のお祭りだからね、参って下さいよと、あんた達は分からんけども、あんたがここにご縁を頂いた限りに、必ずあなたにつながる。いうならばご先祖が全部、御霊のお祭りを受ける事が出来るんだ、だから参って来なさいよというて、もう一人一人に申します。示現活動隣の人に言うて下さい、近所の方にも言うて下さい。この頃信心を落としておる人達には、一遍もう一遍信心が復活するようにお話に行って下さい。
 と言う様にですそう言う様に示現活動、いうならば積極的布教と言う事になって参りました。それもです今日の例えば、お互いが重い罪を感ずるならばです、重い罪を感じておったんでは、おかげになりませんから、詫びれば、許してやりたいのが親心と仰るのですから、素直に詫びる心の状態、そこから許されるおかげを頂いて、昨日のご理解じゃないですけども、神の言う事を聞く、それがおかげの鍵だというのです。だから神の言う事を聞くと言う事はね、只お話を聞くと言う事じゃないのです。
 神の言う事はあもう、うちの息子はよう親ん言う事を聞きますちゅうことは、聞いて守る、聞いて行ずると言う事でしょうが、うちの息子が言う事を聞くと言う事は、だからそういう意味なんです。そういう私はおかげを頂かしてもろうて、愈々有り難い、今日は愈々そういう意味においての、御霊様も有り難い、私共も愈々有り難くならせて頂いたその、有り難いと有り難いとの、いうならば出会いがです。
 ここの御広前で一つの有り難い、一つの渦のようなものが、巻き起こってくるような、雰囲気の中に今日のお祭りを頂きたいと思います。形の上でいわば殺すのはそれぞれ、お上があってお仕置きにあう、まあそれでまあ、いわば罪が解消する様なもんだけれども、心で犯したご無礼とか、お粗末心で犯す所のいうならば、傷つけたり殺したりと言う事はそれは、それは神が見ておる。
 それこそ天網恢恢疎にして漏らさず、必ずその罪は金光教では、罪と言う事は申しませんけれども、ここでは初めて罪という言葉が、使ってありますけれども、その罪と言う事ではなくって、それは氏子をより次の幸せに導くための神の手段です。難儀というのは、だから、罰かぶっとるからではなくてですね。そういう例えば神様が今のままでは助からんから次のいうならば。
 おかげの糸口として難儀は下さるものですけれどもですね。そういう難儀から私どもが、立ち直らせて頂くためには。先ずは自分のいうならば心で殺して来た事の、の認めて素直にです、どこにお粗末が、ご無礼があるやら分かりません、人間凡夫で相分かりませんのですから、どうぞひらにひらにお許しを頂きます様にという、私は素直に詫びる心が必要である、詫びれば許してやりたいのが親心と仰るのですからね。
 そこから私どもが極楽のいうならば、一線上に立たせて頂いて愈々そのより素晴らしい極楽へ向って、進んでいかなければならない。それは御霊の世界の者も現世にこうしておかげを頂いておる者も、一緒にもう手に手をとっての、私は合楽示現でなからなければならないと。合楽示現極楽以上の極楽を、愈々目指さしてもろうて、それを示し現していくという、世界に住みたいと思いますね。
   どうぞ。